Sporpath Career Interview-古賀康彦氏

Sporpath Career Interviewでは、スポーツの現場でキャリアを積む人たちの「選択」と「背景」を深く掘り下げます。

第1回目のゲストは、指導者として高校1年生からキャリアをスタートした古賀康彦氏。現在は岡山県のFCガレオ玉島U-15の監督を務め、エコロジカルアプローチを軸にした指導は話題を呼んでいます。

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これまで異色のキャリアを歩んできた古賀氏。
“なぜその選択ができたのか”
“どうやって道を切り開いてきたのか”

その原点と決断の裏にあるリアルを伺いました。

古賀 康彦氏 – FCガレオ玉島 U-15監督
1986年4月3日生まれ、兵庫県出身。先天性心疾患により選手としての道を断念し、16歳で指導者を志す。県立西宮高校(兵庫)や啓光学園高校(現・常翔啓光学園高校/大阪)で早くから指導経験を積む。
関西外国語大学在学中の1年間をスペイン・バルセロナで過ごし、U-11カテゴリーを指導。帰国後は早稲田大学大学院に進学し、サッカーコーチングを研究しながら、都立石神井高校(東京)で指導に携わった。
大学院修了後の2014年にはオーストラリア・シドニーへ渡り、U-11チームの監督としてチームを率いる。帰国後は2015年よりFC今治でアカデミーコーチおよびトップチームの分析担当としてクラブの発展を支える。
その後、東京ヴェルディ、ヴィッセル神戸、鹿児島ユナイテッドFCのアカデミーでコーチ、IDP担当としてキャリアを積む。
2023年からは岡山県で始動したFCガレオ玉島のプロジェクトに参画し、2024年よりU-15監督を務める。倉敷翠松高校(岡山)では外部コーチも兼任。
日本サッカー協会公認B級ライセンスを保持し、現在はAジェネラルライセンス指導者養成講座を受講中。

目次

  1. 手紙と直談判で切り拓いた、キャリアの“ゼロイチ”
  2. 迷いながら探し続けた、自分の価値が生きる場所
  3. 辿り着いた現在地、倉敷で始めた新たな挑戦
  4. キャリアを振り返って見えるもの

手紙と直談判で切り拓いた、キャリアの“ゼロイチ”

── まずは指導者を志したきっかけを教えてください。
高校時代、先天性心疾患により選手としての道を断念せざるを得なくなりました。
顧問の先生に涙ながらに引退の報告をすると、こんな言葉を返されたのです。
「選手としては早く引退するかもしれないけど、指導者としては早くスタートできるよ」
その言葉に背中を押され、翌日にはノート片手に先輩のプレーを分析していました。悔しさ、受け入れ難さ…それでも心のどこかで “指導者しかない” と直感していました。

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指導を始めた頃の写真

──高校卒業後、関西外国語大学に進学されますが、その決め手は?

当時プレーできない葛藤と指導者としての成果が出ない日々が続き、部活に行けない時期もありました。
そんなとき、車椅子で初めてS級ライセンスを取得した 羽中田昌さん の記事を読み、強く勇気づけられました。
思い切って手紙を送ると、まさかの本人から電話が。
その後、東京で会う機会を作ってくれて、スペイン・バルセロナでの指導経験を聞き、強烈な刺激を受けました。
そこから、スペインに行ける進路 = 外国語大学だと結論づけ、関西外国語大学を受験し進学しました。

── 大学生活はどのようなものでしたか?

勉強をしながら、指導者としての活動も並行していました。
大学近くの啓光学園高校(現:常翔啓光学園)にアポなしで訪ねていき、高校時代に書きためたノートをもとに約1時間プレゼンしたのがきっかけです。
すると、まさかの一言。
「明日から監督やってください」
大学生にして監督という、物凄く貴重な経験を積むことになりました。
そして2年が経った頃、「スペインへ行きたい」という思いが再び強くなり、留学を決めました。

── スペイン・バルセロナでどのような経験を?

午前は学校、午後はクラブで活動する毎日でした。
mixiで情報収集をして、繋がった方から「バルセロナで一番面白いクラブ」を教えてもらい、ジョゼップマリアジェネ(Associació Esportiva Josep Maria Gené)というクラブに辿り着きました。
そのクラブの監督に直接声をかけに行くと「5分待って」と言われ、そのまま2時間待たされました(笑)。
それでも諦めず、強い気持ちを拙いスペイン語で伝えたら受け入れてくれて、U-11の指導を任せてくれました。スペインの“強さの理由”を肌で感じた時間でした。合理的で、論理的で、強さに納得感がある。
この経験は、いまの自分の考え方やキャリアのベースになっています。

── 帰国後はどのように過ごしていましたか?

まずは教員免許の単位を取得しましたが、将来が見えずモヤモヤしていました。とりあえず興味のない大学院を受けて落ちたりして…
それで逆に気づいたんです。本当に学びたいのはスポーツだと。
スポーツを深く学べる筑波か早稲田を目指すことにしました。
そこから近所の大学の研究室に飛び込んで、「スポーツに関わる大学院に行きたいんです」と直談判。教授が行動力を評価してくれて、研究室の使用から研究計画書の添削まで1年間面倒を見てもらえました。
その努力が実り、早稲田大学大学院へ進学しました。

── 大学院での研究や生活は?

コーチングを研究していました。直接有名な指導者のところにインタビュー取りに行って話し聞いて論文にまとめるみたいなこともしていました。
同時に都立石神井高校サッカー部での指導もスタート。
「一緒に働きたい」と思っていた方がいたのがご縁でした。石神井高校はキャンパスから最も近く、当時の顧問の先生も「面白いな、来いよ」と快く受け入れてくれました。
振り返ると、選手だけでトレーニングを行う「ノーコーチングデー」を設けたり、現在の エコロジカルアプローチにつながるようなことを実践していました。


― それからなぜオーストラリアへ渡る決断をしたのでしょうか?

Jリーグへ入るルートがまったく見えなかったんです。仲間が次々とクラブに入っていく中で、自分は道筋がわからない。その苦しさがありました。
そこで、「最後に海外で1年挑戦して、それでも道が開かなければ教員になろう」と覚悟を決め、オーストラリアへ渡りました。
シドニーのロックデール(Rockdale City Suns)でU-11監督を務め、多文化の中で指導する面白さに強く惹かれました。
サッカー的に大発見があったわけではありませんが、仲間ができ、指導やサッカー観についてディスカッションを重ねたことは大きな財産です。

― 帰国後は次のステップをどのように考えていましたか?

強く考えていたのは“教員になる道”でした。結局、Jクラブで働く明確なルートが見えず…。

そんな時、「岡田武史さんがサッカークラブを作る」というニュースを知ったのです。もともと憧れがあり、早稲田大学院の面接でも「岡田さんのようになりたい」と伝えていたほどでした。
気持ちが抑えられず、オーストラリアからクラブへ手紙を書きました。すると事務局から「採用は難しいが、一度会おう」と連絡が。しかしそこから2〜3ヶ月、突然音信不通になってしまったのです。
それでも諦めず、帰国後そのまま今治へ向かい、街を歩いて関係者を探し出しました。ようやくスタッフに会えて、段取りしていただき、ついに岡田監督本人に対面。
「ここで働きたくて来ました」
まっすぐな思いを伝え続けた結果、スポンサー企業で働きながらU-13のコーチを担当することになりました。2年目にはトップチームのマネージャー(兼アナリスト)に就任し、正式契約へ。クラブ発足、立ち上げ、JFL昇格と濃密すぎる3年間で、自分のキャリアの土台になりました。

──ここまで話を聞いていて、行動力が突出していると感じます。手紙を送ったり、直接会いに行って思いを伝えたり。これらを突き動かす行動の原動力とは?

原動力は、良くも悪くも“臆さない性格”にあったと思います。
人に対しても、物事に対しても、怖さをほとんど感じない。もちろん慎重さが必要な場面もありますが、若い頃の自分はとにかく「やりたいと思ったら動く」がすべてでした。
突き動かされるものに出会うと、本気になりすぎるくらいの集中力でのめり込める性質だったのですよね。今振り返ると笑ってしまうのですが、指導を始めたばかりの時は、本気で「自分は日本一の指導者だ」と思っていたくらい尖っていました。(笑)根拠なんてまったくなかったんのですけど、“無知の強さ”もあって、行動のハードルは異常に低かったです。
ただ、この「根拠のない自信」って、若い時期にはすごく大切だったと思います。
知らないからこそ飛び込めるし、失敗する可能性があっても、その怖さよりも「やらない方が後悔する」という気持ちの方がいつも強かったように思います。

迷いながら探し続けた、自分の価値が生きる場所

― 充実を伺えますが、どのような経緯で東京ヴェルディへ?

今治3年目の頃、「自分は何に貢献できているのか?」と存在意義を見失い始めました。
そんな時お話があり、東京ヴェルディからオファーが来ました。
元々サッカーを始めたのはヴェルディだったので感慨深いものがありました。非常に迷いましたが、ヴェルディに行くことを決意し、U-14監督を務めることになりました。

実際入ると、苦戦しました。
振り返ると「クラブを理解する努力が足りなかった」という反省があります。結果で示そうという気持ちが強すぎたのかもしれません。しかし、日本トップレベルの育成組織で、本当に大きな学びになりました。

― 次はヴィッセル神戸へ?

ちょうどイニエスタが来て、リージョが監督に就任するタイミングでした。リージョは僕の憧れの監督。
クラブに履歴書を渡したら興味を持ってもらい、神戸への加入が決まりました。1年目はU-14監督。2年目はクラブ改革で「最適化グループ」が発足し、そちらへ。コロナ禍ということもあり、映像分析を中心にしつつ、U-18にも帯同しました。3年目は最適化グループのIDP担当として個人の分析をしながら、U-12サポートコーチとしても帯同しました。
現場とメソッドの両面を経験できた3年間でした。

― 神戸の次は鹿児島ユナイテッド。どんな理由でしたか?

もっと現場で指導に関わりたい。そして九州で一度働いてみたい。この2つが理由でした。
鹿児島はアラベスとの提携などプロジェクトも面白く、魅力を感じました。U-18の指導はJクラブユースを直接担当する初めての経験で、とても刺激的でした。環境としても素晴らしく、目の前に桜島が噴火する独特のスタジアム、サポーターの熱量など、本当に衝撃的な日々でした。同時に、自分の貢献度や実力不足も痛感し、次のステップを考えるきっかけにもなりました。

辿り着いた現在地、倉敷で始めた新たな挑戦

― そこから街クラブ(ガレオ玉島)へ移った理由は?

エコロジカルアプローチ”という考え方が、自分の指導の根っこにずっとありました。
これを軸に、本当に自分が納得できる指導をしたい。そう思ったとき、自然とクラブを作り上げることに挑戦してみたいという気持ちになりました。
そんなタイミングでガレオ玉島とご縁がありました。倉敷という街の規模感や文化、地域の空気感も、自分が思い描く“サイズ”だと感じました。さらに、いったん途絶えていたジュニアユースを復活させたいという話を聞いて、「ここでなら本気で挑戦できる」と思ったのです。
もちろん、Jクラブを離れる葛藤はありました。延長のお話もいただいていましたし、環境としては申し分なかった。それでもなお、「一度その看板を脱がないと、自分自身の本当の実力とは向き合えない」と感じました。
そう腹をくくって、覚悟を持って倉敷に来ました。

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ガレオ玉島スタート時の写真

―実際携わってみて楽しいですか?
凄く楽しいです。
子供たちがかわいいので。「この子たちのために環境を作りたい」という気持ちが中心にあります。指導者を辞めようかと本気で悩んだ時期もありました。それもガレオの子どもたちに救われました。「もう一度頑張りたい」と思わせてくれた。だからこそ、何かを残したいし、彼らのために良い環境を作りたいです。

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ガレオ玉島3年目の写真



―今後、やりたいことはありますか?

まずはガレオで“良い選手を出し続ける”こと。
そして、倉敷にJクラブを作りたい。
倉敷にJクラブがないのは違和感があるし、絶対に可能性がある街なので。
何かを残したいと強く思います。
自分のキャリアとしては、「あなたが必要だから来てほしい」と言われるような価値を示したいです。そのためにガレオでもっと活躍ができたらと。

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キャリアを振り返って見えるもの

―幅広いカテゴリーを経験して、自分が本当に力を発揮できる場所は見えましたか?

トップチームのコーチはまだ経験していませんが、アカデミーに携わることが最も自分らしいと感じています。
また、自由度が高く様々なトライができる環境でこそ、パフォーマンスが上がるタイプだと気づきました。

―キャリア全体は戦略的なものでしたか?

正直に言うと、予期せぬことしか起こってないです(笑)
ただ、常に軸はありました。
若い頃は“Jリーグの監督になりたい”、”認められたい”という承認欲求が大きかったと思います。それでも、キャリアを重ねる中で、少しずつ目的が変わってきたのです。
「自分にしかできない価値を残したい」
「自分だけの強みを出したい」
という気持ちに変わっていきました。

―クラブ選びの基準は何だったのでしょう?
「面白いプロジェクトか」「一緒に働きたい“人”がいるか」
この2つで決めてきました。
条件で選ぶのではなく、軸と基準のもと心が動いたものに対して能動的に動いてきたものです。その根底には“成長できるか”という価値観がありました。自発的になれるものでないと成長はできませんし。

―最後にSporpathユーザーに向けてキャリアについて伝えたいことは?

誰にでも、多くの可能性があると思っています。
偉そうに言うつもりは全くないですが、最後にものを言うのは行動を“ビビらない”ことだと感じています。一歩踏み出すのが怖くて止まってしまう人は多い。でも、意外とその一歩を越えた先には、想像していなかった景色や面白い出来事がちゃんと待っているんですよね。
私自身、キャリアは計画どおりなんて一度も進んでいません。
でも、“行動した分だけ次の扉を叩けました。逆にいうとチャンスはそこからしか生まれません。
だからこそ、完璧じゃなくていいので、とりあえず動き出してみる。
その小さな勇気が、気づけば自分のキャリアを大きく動かしてくれると思います。



今回お話しいただいた古賀康彦氏の著書はこちら📗
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