70万ドルの融資を4億ポンド以上の資産に変えたブレントフォード:マシュー・ベンハム


プレミアリーグはマネーの世界。国家ファンド、アメリカ人投資家、億万長者オーナー。総年俸と最終順位の相関はほぼ絶対的で、「結局のところ、僕たちはExcelのスプレッドシートが互いに戦うのを見ているだけだ」とジョークが飛び交う世界でもある。

しかしその常識を、一人の男が覆した。マシュー・ベンハム

オックスフォード大学物理学部卒、元バンカー、そしてデータ駆動型ベッティング企業の創業者。彼はウエストロンドンの小さなクラブ、ブレントフォードFCをイングランド4部相当から世界最高峰のプレミアリーグへと導き、2025-26シーズン現在は7位という「クラブ史上最高の成績」を収めている。

2026年のMIT Sloan Sports Analytics Conferenceで行われたベンハムへのインタビューを軸に、彼の思考法・哲学・実践を深く掘り下げる。


 01|キャリアの転換:金融からデータの世界へ

1989年、オックスフォード大学で物理学の学位を取得したベンハムは、その後12年間を金融業界で過ごした。最終的にはバンク・オブ・アメリカでバイス・プレジデント(副社長)にまで昇進。安定と実績を手にした男が、2001年に下した決断は意外なもの——スポーツベッティングの世界への転身だ。

ネットが普及する前、賭けをしたければ高級街のブックメーカーに行くしかなかった。彼らはカルテルのように機能していて、小さな賭けしかできず、オッズも最悪だった。しかしインターネットで海外のブックメーカーが参入した瞬間、市場は信じられないほど非効率になった。”――ベンハム

その非効率こそが、ベンハムにとってのチャンスだった。彼はアルゴリズムと統計を用いて結果を予測するモデルを構築。初期の頃はシュートの有無、枠内かどうかという単純なデータしか使っていなかったが、それだけで市場では優位に。

その成功を元に、2004年にはデータ分析会社「Smartodds」を設立。後に「期待得点(xG)」として知られる概念の先駆けとなる分析手法を実装し、莫大な資産を築く。

“私はギャンブルを楽しむためにやったことは一度もない。

賭けが好きなわけではなく、数学とフットボールが好きなだけだ。”――ベンハム


02|愛するクラブへの融資:ブレントフォードとの再会

11歳で初めてブレントフォードの試合を観て以来、ベンハムはずっとクラブのファンだった。2007年、財政難に直面したクラブに対し、彼は70万ポンドを融資する。条件はシンプル——「返済されなければ、買収権を得る」。

そして2012年、彼は正式にオーナーへ就任。当時のブレントフォードはイングランド4部相当のクラブだった。

“最初の数年間は本当に、労働の愛のようなものだった。子供の頃に応援していたチームだから。楽しみながら続けていけるだけのお金を回せるか、というものだった。”――ベンハム

2013年の夏、転換点が訪れる。プレミアリーグのTV放映権料が爆発的に膨らんでいることに気づいたベンハムは、「移籍市場の非効率性を突くことで、資金力のハンデを補えるのではないか」という仮説を立てた。

すなわち、資金力があるクラブほど、移籍市場での無駄遣いが多くなる。ブレントフォードはそこで正しく評価されていない選手を拾い、育て、高く売る——すなわち、プレミアリーグの資金がチャンピオンシップ(2部)に流れ込み、2部の資金がリーグ1(3部)に流れる。

その連鎖の中で、割安な選手を発掘して高く売る「移籍マーケットでの利益創出」こそが、資金力なき小クラブが上に行ける唯一のルートだと確信したのだ。


03|デンマークでの実験場:FCミッティラン

ブレントフォード買収から2年後、ベンハムはデンマークの小クラブ「FCミッティラン」の株式60%を取得する。破産寸前のクラブを、実験の場として選んだのだ。

“デンマークに行って最初に驚いたのは、文化の素晴らしさだった。選手たちが本当にフレンドリーで、オープンだった。英国のフットボールとは全然違う。英国では選手の横を歩いても、こちらの陰口を言っているようなところがある。”――ベンハム

セットプレーコーチ、スローインコーチ、専門的なコーチが導入され、インゲームデータがクラブ運営に統合。

ミッティランは新たな哲学のもと、クラブ史上初のリーグ優勝を果たし、ヨーロッパの舞台へ進出。マンチェスター・ユナイテッドを破り、リヴァプールとUEFAチャンピオンズリーグで対戦するまでに成長を遂げる。

この経験で得た文化的知見と数学的知見を、ベンハムはブレントフォードにも持ち込んだ。


 04|常識の破壊:xGとアカデミーの廃止

期待得点(xG)への徹底した信頼

ブレントフォードが採用したKPI(重要業績評価指標)の核心は、「実際の得点数よりも期待得点(xG)を重視する」というものだった。ベンハムはインタビューでこの考えを明快に語る。

“ストライカーにとって、ポジショニング(ゴール前にどれだけ入り込めるか)は、フィニッシュの精度よりはるかに重要な指標だ。フィニッシュには非常に多くの偶然が絡む。”――ベンハム

たとえば同じ15ゴールを決めた2人のストライカーがいたとして、一方が倍のチャンスを作り出していた場合、ベンハムが欲しいのはより多くのチャンスを作り出した方ということ。ゴールを奪う能力より、ゴール前のポジションを取る能力を評価する——これがブレントフォードの選手評価の根幹。

 

ユースアカデミーの完全廃止

ロンドンを拠点とする小クラブにとって、アカデミーの立ち位置は不利だった。裕福でない上に、ホームタウンは競合ひしめくロンドン。たとえ将来プロになる素質を持った少年が現れたとして、結局はチェルシーやアーセナルのアカデミーに入ってしまう。

そこでブレントフォードは、アカデミーを廃止し「Bチーム」に転換するという大胆な改革を起こす。

これにより、組織のリソースを「若い原石の育成」からより「市場の非効率性による割安選手の発掘と移籍収益の最大化」へと完全にシフトさせたのである。


05|移籍市場の錬金術:ストライカー発掘

ベンハムの戦略の結実は、驚異的な移籍実績に如実に表れている。

選手 獲得額 売却額
サイード・ベンラーマ 380万ポンド 4,000万ポンド
オリー・ワトキンス 230万ポンド 3,700万ポンド
ニール・モペイ 200万ポンド 2,600万ポンド
イヴァン・トニー 600万ポンド 4,000万ポンド以上
ウィッサ+ムベウモ(2人合計) —— 1億ポンド以上

これは偶然ではない。ベンハムはインタビューで次のように説明する。

“スカウトとモデル、その両方が一致したときに最も確信を持てる。イゴーリ・チアゴはスカウトもモデルも高く評価した。一方、ブライアン・ムベウモは19歳でフランス2部のデータしかなく、モデルはあまり評価しなかったが、スカウトが非常に高く評価していたので踏み切った”――ベンハム

現在そのブライアンとムベウモの穴を埋めるために獲得したイゴーリ・チアゴは、今季すでに18ゴールを記録。プレミアリーグ得点ランクでアーリング・ハーランドに次ぐ2位につけている。


06|リーダーシップ哲学:監督をヘッドコーチと定義

2018年、ベンハムは若いコーチ、トーマス・フランクを監督に起用。フランクはブレントフォードをプレミアリーグへ昇格させ、4年連続上位半分フィニッシュという偉業を達成した。しかし2025年夏にトッテナムへ去ると、ベンハムは内部昇格を選択し、セットプレーコーチのキース・アンドリュースに指揮を任せる。

メディアは即座にブレントフォードを「降格候補」と断言した。しかし現在、ブレントフォードはプレミアリーグ7位——歴史上最高の成績を収めている。

ベンハムはこのアプローチに対して、「監督をヘッドコーチ」と定義すると語った。

“私が例として挙げたのは映画監督のポール・トーマス・アンダーソン。彼は監督であり、プロデューサーであり、脚本家であり、編集にも撮影にも深く関与する——彼のように、ヘッドコーチがリーダーとして機能しながら、テクニカルディレクターやパフォーマンスヘッドも対等に意見を言える構造だ。”――ベンハム

意思決定においても、彼はグループシンクを避けながら集合知を活用する。「まず4人が別々に考え、その後集まって自由に意見交換する。『討論』ではなく『意見交換』という言葉を使う。討論は勝ち負けが目的になるが、意見交換は正しい答えを見つけることが目的だと語った。


07|セットプレーの革命:NFLのプレイブックをフットボールへ

ブレントフォードがフットボール界に与えたもう一つの衝撃が、セットプレーへの徹底した取り組みだ。

ゴールの約30%はセットプレーから生まれている。にもかかわらず、長らく多くのクラブが投資してこなかった領域でもある。

なぜか。ベンハムはその理由をこう語る。

“英国のフットボール文化では、選手は楽しくて、フリーキックやヘッドテニスで盛り上がるものを好む。セットプレーを突き詰めるには、退屈な反復練習が欠かせない。選手がドレッシングルームの居場所を失うことを恐れて、誰もやらなかった。”――ベンハム

 

ヒントはNFLにあった。「高校教育程度の選手でも100ページのプレイブックを暗記できる。なぜサッカーでできないのか」

——まずデンマークのミッティランでこの考えを実装し、機能することを確認。その知見をブレントフォードに持ち帰り、セットプレーをクラブの武器として確立させた。

その影響は業界全体に広がっている。現在アーセナルでセットプレーコーチを務めるニコラス・ヤも、元はブレントフォードのコーチだ。

“大きなクラブに引き抜かれてしまうのは、ある意味、最高の褒め言葉だと思っている”――ベンハム


08|データの先へ:AIが監督の判断を補完する時代

データがフットボールをより良くしたか?という問いに対して、ベンハムは明確に「Yes」と答える。

“ゴール数は20〜30年前より多い。試合はより面白い。ノスタルジーで語る人はいるが、単純に過去を美化しているだけだ”――ベンハム

そして彼は未来を見据える。

“モデルとAIはどんどん良くなっていく。現在の採用プロセスでもモデルが大きな役割を果たしているが、今後はコーチの意思決定すなわち、スターティングメンバー、交代、フォーメーション変更にも、より多くのデータが使われるようになるだろう。”――ベンハム

彼はNFLの4thダウンの判断を例に挙げる。かつてはデータオタクがもっと攻撃的に行くべきだと言っても誰も聞かなかった。今はテレビ中継でグラフィックが出て、モデルはここで攻めるべきだと言っている』と表示される。サッカーでも同じことが起きるだろう。

“モデルが選手Aを起用すべきと強く推奨しているのに、監督が選手Bを起用した場合——誰か(自分ではないが)が監督に説明を求める日が来るかもしれない”――ベンハム


09|データ革命の現在地:70万ポンドの融資が4億ポンド超のクラブへ

2021年、プレーオフ決勝を制したブレントフォードは、イングランド4部相当からプレミアリーグへの昇格を完遂。2025-26シーズン、トーマス・フランク前監督、ヨアネ・ウィッサ、ブライアン・ムベウモという主力3名を失ってスタートしたにも関わらず、現在プレミアリーグ7位——歴史上最高の成績を収めている。

BBCによれば、このままブレントフォードが好調を維持すれば、欧州カップ戦出場権獲得という「クラブ創設以来初の快挙」も射程に入ってくるという。

昇格直後に約3億ドルとされたクラブ価値は、プレミアリーグへの長期残留と放映権収入、新スタジアムの収益により、現在4億ポンド超にまで成長した。

ベンハムがいる限り、ブレントフォードは「知性の力で」トップに立ち続ける。


 
 
Sporpathは多くのプロスポーツチームの求人を取り扱い、オープンなスポーツ人材市場の創出を目指すキャリアプラットフォームです。
登録(無料)はこちらから
👇
 

 

参考・出典